絵の種類

holzschnitt

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あわて絵

文久2年(1862)8月、攘夷気分の高まる中、薩摩藩主父島津久光の大名行列と生麦村で、馬で行きかった四人のイギリス人が、日本の習慣に疎く下馬しなかったため、薩摩藩士に殺傷された。このいわゆる「生麦事件」の賠償金として、翌3年2月イギリスは幕府に十万ポンドを要求し、横浜に停泊中の軍艦で威嚇してきた。この非常事態にあたって近在の住民達の、あわてふためいて逃げ出す有様が描かれている

有卦絵

陰陽道では、人生は七年間の幸運の有卦と五年間の無卦が交互にくるとされ、有卦に入る年に「福」を取り込むため、頭に福の字がつく七つの物をそろえて祝う習慣がある。このおめでたい七つのものを描きこんだ「有卦絵」をお祝いとして贈ることが、江戸末期に流行した

兎絵

明治7年(1874)には、政府の奨励による「兎の飼育」が流行し、それに因んだ多くの戯画や諷刺画が生まれた

戯画

笑いを目的として描かれた絵

拳の絵

中国から伝来した「拳」の遊戯は、江戸時代中期から酒席の余興として遊郭から一般へと大流行した。弘化4年(1847)正月河原崎座で上演された「とてつる拳」は、江戸市中などに「拳」の一大ブームを巻き起こし、歌舞伎役者の似顔絵にした様々な種類(狐拳・三国拳・浅草拳など)の拳の絵が描かれた

死絵

江戸時代後期、人気役者の死の直後その報道と追善をかねて出版された非合法の錦絵で、似顔絵に戒名や菩提寺、辞世の句やその経緯などが書き込まれ、戯画仕立てのものも少なくない。安政元年(1854)に大阪で自殺した八代目市川団十郎のものが最も多く、その数は文献によって大分開きがあるが、百種類-三百種類の「死絵」が売り出されたといわれている

将軍上洛絵

文久3、4年(1863-64)の二度に渡っての十四代将軍徳川家茂の上洛の様子が「東海道五十三次」に重ねて描かれ、京都御所での天皇謁見の場面の描写もある。当時幕府の動向を描く事は禁じられていたため、徳川将軍は源頼朝にしてある

西南戦争絵

明治10年(1878)、西郷隆盛を首領とする鹿児島の私学党が、新政府の開明策や士族解対策に反対して熊本で挙兵し、新政府軍と戦い敗れた「西南の役」をテーマにした諷刺画が描かれた

鯰絵

安政2年(1855)10月2日の江戸大地震の直後に、地震伝説の鯰を描きこんだ錦絵が大量に出回った。地震伝説とは、「地震の元凶は地中の鯰で、これを普段は鹿島大明神が要石で押さえ込んでいるが、10月には大明神が出雲へ出かけて神無月であったため、鯰が暴れて大地震を起こした」というもの。このいわゆる「鯰絵」は、禁じられていた事件報道であるが、地震によって検閲機能が麻痺していた状況を好都合に、出版禁止となる12月14日までの約二ヶ月半の間に、無改、無落款で約四百種が出版され(『なゐの日並』)、現在約二百種の板が確認されている。尚、地震直後に描かれたものは鯰を「悪」として表現しているが、後半になると復興景気をもたらした鯰を「善」とするモチーフが目立ってくる

日清・日露戦争絵

日清戦争時(1894-95)と日露戦争時(1904-05)の、日本と清国、日本とロシアの戦況が描かれている戦争戯画。このブームを最後に、錦絵の戯画・諷刺画の大量制作活動は停止する

麻疹絵

文久2年(1862)4月から7月にかけて、江戸で麻疹が大流行した。この疫病に対しての、治療法や厄除けの呪いなどを描いた戯画が大量に発売された。現在百点近くが確認されている

流行神絵

嘉永2年(1849)の春から6月にかけて一時的に、日本橋四日市の「翁稲荷大明神」と四谷内藤新宿正受院の「奪衣婆」、そして両国回向院の「お竹大日如来」への信仰が高まり、参詣者で賑わった。この流行三神を描いた様々な錦絵が現在約五十点確認されている

判じ絵

「言葉」を「絵」に置き換え、しかもその言葉と絵は無関係で、描かれた物の呼び名の「音」だけをたよりにして、絵師の意図する詞や歌を解き明かす仕掛けの絵

美人画

天保改革の庶民生活統制の一環として、天保13年(1842)6月4日の「町触」で、遊興地の風俗や花魁、芸者等を描くことが禁じられた。その禁令をかわすため、詞書と状況を戯画化した美人画が数多く版行された

諷刺画

政治家や有名人、道徳や流行など、ある特定な人物や風潮を批判的に描いた絵。江戸時代、特に幕政批判は厳禁であったため、表現は直接的ではなく、一見では判らない間接的な手法がとられた

文明開化絵

明治維新(1868)後の急速な欧米文化の導入、いわゆる「文明開化」の流行に遅れまいとして、舶来品や洋装、洋食、外国習慣などを、そのまま日本旧来の日常生活にとりいれたためにおきた、ちぐはぐな状況を描いた戯画・諷刺画

戊辰戦争絵

慶応4年(1868)戊辰の年に起きた佐幕軍(幕府・会津藩・桑名藩など)と新政府軍(薩摩藩・長州藩など)のいわゆる「戊辰戦争(1868-69)」の戦況が、子供の遊び絵や大人のたわむれ絵として大量に出版され、幕末戯画・諷刺画の最大のブームを巻き起こす。二つのグループにわかれて様々な遊びに興じる子供や大人の着物の柄から、例えば「かご」は薩摩藩、「はぎ」は長州藩、「ろうそく」は会津藩というように、その藩名が暗示されている

役者絵

天保改革の庶民生活統制の一環として、天保13年(1842)6月4日の「町触」で、歌舞伎の場面や歌舞伎役者を描くことが禁じられた。そこで官憲の網の目をくぐるため、当時の有名役者の似顔絵が、魚や動物や人形やお面等を媒体に、趣向を凝らした戯画として、国芳とその門人達によって数多く描かれた

横浜絵

安政5年(1858)にアメリカを始め、ロシア・オランダ・イギリス・フランスと締結したいわゆる「安政の五カ国修好通商条約」の一環として、翌6年には、長崎、函館と同時に横浜が開港され、貿易都市として急速な発展をとげた。この状況下横浜に繰り広げられた、様々な国籍の外国人の珍しい生活や日本人との交流や摩擦をテーマにした戯画が数多く生まれた

寄せ絵

様々な物を集めて一つの物を形作った絵