歴史

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錦絵の戯画・諷刺画の歴史 1842-1905

享保、寛政についで徳川幕府三度目の大改革は、天保12年(1841)5月15日将軍家慶の上意をうけ、老中水野忠邦によって着手された。この天保改革では、奢侈禁止をモットーに、武士階級のみでなく、一般庶民の日常生活全般に渡る厳しい統制が実施された。ちなみに改革開始から2年余の間に百七十八件もの町触れが下され、風俗営業、娯楽、芸能、出版などのあらゆる方面で禁止事項が徹底されていった。

まず同年12月には、地本問屋株仲間の解散が命じられ、続く翌13年6月3日発令の出版統制法では、享保7年にすでに発禁となっていた異教・妄説・風俗・諷刺・好色本・人々家筋先祖の創作本などが改めて禁止されただけでなく、直接検閲制と納本制(著者―板元―町年寄(掛名主)―町奉行)が新たに導入された。この制度は、1.名主単印時代(天保14年―弘化3年11月)、2.名主双印時代(弘化3年12月―嘉永5年1月)、3.名主双印と年月印の三印時代(嘉永5年閏2月―嘉永6年11月)、4.改と年月の双印時代(嘉永6年12月―安政4年)と、安政5年(1858)正月の掛名主制度廃止と問屋仲間の再興により、仲間内での自主検閲制が復活するまで約15年間も続行された。

この「出版統制法」発令の翌日、天保13年6月4日には、特に錦絵と合巻絵草紙を規制する「町触」が下された。ここでは勧善懲悪物と道徳教訓物の奨励と同時に、歌舞伎役者・遊女・女芸者絵の禁止・在庫品の販売停止の申し渡しが行われ、錦絵(団扇絵もこれに順ずる)も一般出版物と同様に、町年寄(館市右衛門)の直接検閲を受けることが定められた。また更に11月の「町触」では、色数(最高八色まで)、形(大判三枚続きまで)、価格(十六文以下)が限定され、月番掛名主が草稿に改印を押すことが厳命された。こうして従来から最も重要なテーマであった「役者絵」と「美人画」の制作販売を禁止された錦絵界は、大きな打撃を受け沈滞を余儀なくされた。

しかしこの禁令下の厳しい取締りの中でも、主に国芳とその一門の絵師達(芳虎・芳艶・芳員・芳藤・芳幾・芳年等)によって、「笑い」「情報」「政治批判」等をその新しいテーマとした錦絵の戯画・諷刺画が創版され、幕末江戸の大衆の大きな人気と支持を獲得していく。14年(1843)8月国芳は、武者絵の体裁をとった天保改革の諷刺画(当時は「判じ絵」とよばれた)「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図(本データーベース30000)」を描き、爆発的な評判をとる。この時は官憲の追及を恐れた板元(伊場屋仙三郎)が、すぐさま在庫品の回収と版木を処分したため、国芳も板元も実刑は免れている。その後も国芳は、幕政批判の諷刺画を様々な手法を使って描き続けるが、厳禁となった「役者絵」も、魚、動物、人形、お面等を媒体にした似顔絵戯画として幾種も描き、また「美人画」もユーモアたっぷりの詞書をそえ戯画仕立てにしたものを数多く出版している。

弘化2年(1845)水野忠邦の失脚で天保改革は事実上破綻し、禁令の取り締まりも幾分緩和し、弘化末期から嘉永初期にかけて錦絵界も徐々に以前の活気をとりもどす。この頃から、巷の珍事奇談や流行に合わせた戯画・諷刺画が大衆の要求に応じた情報源として大量出版され始める。

弘化4年(1847)1月河原崎座で上演された所作事「とてつる拳」から「拳」の一大ブームが起こり、役者の似顔絵にした「拳の絵」が空前の売れ行きを見せる。国芳の筆によるものだけで約六十種類も確認されているが、それ以降「拳」の上演に合わせて、様々な種類の拳絵(狐拳、三国拳、浅草拳、世直し拳等)が、様々な絵師によって大量に描かれていく。当時さらに興味深い流行現象として、嘉永2年(1849)の春から夏にかけて一時的に、日本橋四日市の「翁稲荷大明神」と四谷内藤新宿正受院の「奪衣婆」、そして両国回向院の「お竹大日如来」への信仰が急激に高まり、参詣者で賑わった事実が挙げられる。この時出版された「流行神絵」も非常な人気を集めたようである。当時は国芳一門だけでなく、歌川派の広重始め広景や貞秀等も戯画分野で活躍し、「忠臣蔵」や有名な歌舞伎狂言、「東海道五十三次」や「名所絵」などのパロデイーが揃い物の戯画として膨大な出版数を記録していく。

嘉永6年(1853)ペリー艦隊の浦賀来航にあたって、あわてふためく幕閣を描いた国芳の「浮世又平名画奇特(本データーベース20001)」がまた大評判となり、官憲の鋭い追及を受けるが、今度も国芳は実刑を受けずに済んでいる。翌安政元年(1854)8月、当時の大スター八代目市川団十郎が大阪で自殺する。この一大トピックスに合わせて売り出された「死絵」(江戸時代後期、主として人気役者の死の直後、その報道と追善をかねて出版された肖像画で、戯画仕立ての絵が少なくない)は、百―三百種類という想像を絶する数であったといわれている。しかしなんと言っても幕末の戯画・諷刺画の一大ピークは、翌2年(1855)10月2日の江戸大地震直後の約二月半の短期間に、無検閲、無落款で非合法(当時約四百種が版行され、現在約二百種類が確認されている)に大量出版されたいわゆる「鯰絵」によって作られる。

安政5年(1858)調印された五カ国(米・英・仏・露・蘭)との修好通商条約によって、翌6年長崎、函館と共に横浜が開港され、貿易都市として急速に発展する。そこでは当然、外国人の目新しい生態を描いた「横浜絵」が量産され、其の中には外国人と日本人との交流摩擦をテーマにした戯画・諷刺画が少なくない。文久元年(1861)の和宮降嫁の諷刺画、翌2年(1862)の4月から7月にかけて流行した、麻疹の治療法や厄除けを描いた「麻疹絵」も現在多数確認されている。また同年8月、対外危機に対する攘夷熱の高まりの中で起きた島津藩士によるイギリス人殺傷事件「生麦事件」への、江戸湾停泊中のイギリス軍艦による報復威嚇行為に、あわてふためく江戸庶民の有様が描かれた「あわて絵」も多い。続く3年―4年(1863-64)には、禁止されていた幕府の時事問題を扱った「将軍上洛絵」がシリーズで出版され、元治・慶応年間(1864-65)になると、太平記の世界に見立てた長州征伐ものが数多く描かれている。そして江戸時代の最終年慶応4年(1868)戊辰の年におきた佐幕軍(幕府・会津藩・桑名藩など)と新政府軍(薩摩藩・長州藩など)との戊辰戦争(1868-69)の戦況が、子供の遊び絵や大人のたわむれ絵として大量に出版され、いわゆる「戊辰戦争絵」として幕末戯画・諷刺画の最大のブームを巻き起こす。

明治期に入ってからは、維新後の急速な欧米化に伴う社会混乱を諷刺した「文明開化絵」が大流行する。明治6年(1873)には、兎ブームに乗った「兎絵」。続く7年(1874)、幕末から狂画を描いてきた河鍋暁斎が、開化風俗を地獄や妖怪界に移して戯画化した「暁斎楽画」シリーズを出版し、一方月岡芳年は「東京開化狂画名所」や「機嫌競」等の揃い物を発表する。10年(1877)には、西郷隆盛と私学党が新政府軍と戦って敗れる「西南戦争絵」も相当数描かれている。明治14年(1881)それまでは風景画家であった小林清親が、「団々珍聞(マルマルちんぶん)」(明治10年創刊)に入社し、本格的な戯画・諷刺画「清親ポンチ」の連載を始める。この頃から、これまで錦絵の戯画・諷刺画が果たしてきた大衆への情報と娯楽の提供という役割は、低コストの石版や凸版印刷の新聞や雑誌が肩代わりしていくようになる。

こうして天保改革の「落とし子」ともいえる錦絵の戯画・諷刺画は、清とロシアとの戦争時に起きた「日清(1894-95)・日露(1904-05)戦争戯画」のブームを最後に、その60年に渡る制作活動を停止する。