絵師

holzschnitt

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一景 

(作画期:明治初期) 画号:景昇斎、昇斎

初代広重門弟の広景の後名との説がある。滑稽味のある風俗画、名所絵が多い

歌重 (三代広重)

(1843-1894) 姓:安藤 画号:一立斎、立斎

初代広重の門人。「横浜絵」「戊辰戦争絵」「文明開化絵」が多い

清親 

(1847-1912) 姓:小林 画号:方円舎、真生楼

明治時代の代表的な諷刺錦絵師。特に師はなく独学で、初期は風景画家として活躍するが、明治14年に「団々珍聞」に入社後「清親ポンチ」を連載し始める。日清・日露戦争戯画「百撰百笑」の大シリーズがある

暁斎 

(1831-1889) 姓:河鍋 画号:洞郁陳之、狂斎、周麿、暁斎、猩々庵

七歳で短期間、国芳に入門し浮世絵を学び、その後狩野洞白に師事する。幕末の世相を揶揄した様々な狂画を描き、「狂斎百図」や明治期の「暁斎楽画」のシリーズが有名

小国政 

(作画期:明治20年代―明治末) 画号:楳堂、柳蛙

父三代国貞に学ぶ。戯画・諷刺画・風俗画が多い。五代国政と同一人物かは未詳

国貞 (初代)

豊国二代と同人物

国輝 (初代)

(作画期:文政―安政頃) 画姓:歌川 画号:貞重、五蝶亭、新貞亭、独酔舎、一雄斎、一泉斎、一心斎

初代国貞の門人。「貞重」落款のものには「子供絵」や「教訓絵」が多く、特に「教訓三界図会(本データーベース30031)」が有名。また、弘化4年3月内藤新宿太宗寺の「閻魔の目」が盗まれた事件を描いた戯画が数枚ある

国輝 (二代)

(1830-1875) 画姓:歌川 画号:一雄斎、一曜斎、曜斎

初代国貞門人で、二代国綱を名乗っていたが、慶応元年(1865)頃、二代国輝を襲名する。「相撲絵」「文明開化絵」で活躍する

国政 (五代)

小国政と同一人物とされているが確証は無い

国盛 (二代)

(作画期:1830−1861) 画姓:歌川 画号:一宝斎、一龍斎、一麗斎、春暁斎

初代国貞の門人。戯画が得意で、噺本に落としばなしの挿絵も数多く描く

国芳 

(1797-1861) 画姓:歌川 画号:朝櫻楼、一勇斎

幕末江戸の諷刺錦絵師の第一人者である国芳は、寛政9年(1797)江戸日本橋に生まれ、十五歳前後で初代豊国に入門し、文政10年「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」の武者絵シリーズで名をあげる。天保13年(1842)6月、錦絵の「美人画」と「役者絵」が発禁となり錦絵界は大きな打撃をうけるが、国芳はその強烈な独創性と洗練された絵画力を駆使し、改革を逆手にとった戯画・諷刺画で他の追従を許さず幕末江戸の一世を風靡する。しかるに安政2年(1855)の秋から悪化した脳疾患の後遺症(中風)のため「武者絵の国芳」と異名を取るほどであった往年の筆力に致命的な衰えを見せる。だがその苦境にあっても国芳は筆を折ることなく、文久元年(1861)六十五歳でその死を迎えるまでの数年間は、単純な構図と稚拙な描線が目立つ戯画・諷刺錦絵の小品を描き続ける一方、門弟達の指導に力を尽くす。かの「鯰絵」ブームも、また彼の死後起こる戊辰戦争時の諷刺画ラッシュも、その大基をつくったのは国芳その人である

貞秀 

(1807-不詳) 画姓:歌川 画号:玉蘭斎、五雲亭、玉翁

初代国貞(三代豊国)の門人。時事問題をテーマにした「横浜絵」や「将軍上洛絵」を数多く描いている

貞房 

(作画期:文政―嘉永頃) 画姓:歌川 画号:五亀亭、五楓亭、桶蝶楼

初代国貞の門人で、江戸から大阪へ移住する。美人画、役者絵に混じって「拳」の判じ絵がある

豊国 (二代)

(現在は三代・初代国貞)(1786-1865) 画姓:歌川 画号:五渡亭、香蝶楼、一陽斎、喜翁

歌川豊国の門弟、国芳の兄弟子、文政12年『偐紫田舎源氏』(合巻・柳亭種彦作)の挿絵で評判をとる。初代国貞から弘化元年「二代豊国」を襲名する。美人画・役者絵の第一人者。戯画は少なく、天保改革で美人画・役者絵が禁止されてからは、停滞を余儀なくされる。後期の落款には多く、責任解除の「応需」がつけられている

梅堂

小国政と同人物

広景 

(作画期:安政―慶応年間) 画姓:歌川

初代広重の門人。大判揃物「江戸名所道戯尽」と三枚続「青物魚軍勢大合戦之図(本データーベース30029)」が有名

広重 (一代)

(1797-1858) 姓:安藤 画姓:歌川 画号:一幽斎、一立斎、立斎、歌重

豊広門人。風景画・名所絵の第一人者だが、戯画・諷刺画も数多い

広重 (三代)

歌重と同人物

芳幾 

(1833-1904) 姓:落合 画姓:歌川 画号:一恵斎、一薫斎、朝霞楼、洒落斎

1849年頃国芳に入門。安政期から役者絵や美人画を多く手がけているが、師国芳の強い影響をうけ、国芳没後は「戊辰戦争絵」「文明開化絵」等、時事報道風刺戯画の分野で指導的立場をとり、明治7年から「東京日々新聞」、翌8年から自ら創刊した「東京絵入り新聞」、12年からは「歌舞伎新報」に挿絵画家として活躍を続ける。門人に幾丸、幾英、幾勝がいる

芳員 

(作画期:1848-1870) 画姓:歌川 画号:一寿斎・一川斎

国芳門人。横浜絵の先駆者の一人。戯画・諷刺画も多く「道化狂画(本データーベース10074)」は特に有名

芳艶 

(1822-1866) 画姓:歌川 画号:一栄斎、一英斎

15歳で国芳に入門。武者絵や刺青の下絵をよくした。国芳にそっくりな武者絵仕立ての諷刺画が数枚ある

芳年 

(1839-1892) 画姓:月岡 画号:玉櫻楼、一魁斎、大蘇、咀華亭

嘉永3年に国芳の門人となる。幕末には歴史上の事件や時代風潮を反映した作品が多く、明治期には「錦絵新聞」や「絵入自由新聞」の挿絵で活躍し、「東京開化狂画名所」や「機嫌競」などの戯画シリーズも残している

芳豊 

(1830-1866) 画姓:歌川 画号:一龍斎

初めは初代国貞の門下であったが、国貞が二代豊国を襲名した時に、国芳の門人となる。国芳は故意に「豊」を「芳」の下につけ「芳豊」と命名したという。武者絵のほかに「麻疹絵」「横浜絵」「見世物絵」等がある

芳虎 

(作画期:天保中期-明治20年頃) 画姓:歌川 画号:一猛斎、猛斎、錦朝楼

国芳の最古の門人で、師と同じに武者絵の体裁をとった風刺画を得意とするが、後不和となり破門される。嘉永2年(1849)「道化武者御代の若餅(本データーベース10077)」で徳川家康を諷刺し、手鎖50日の刑を受ける。明治元年の「錦絵師番付」では、貞秀についで二位に名前がある。「拳の絵」「横浜絵」「長州征伐絵」「文明開化絵」等の戯画・諷刺画を多く残す。また明治期には新聞記者としても活躍する

芳房 

(1837-1860) 画姓:歌川 画号:一宝斎

国芳の門人だが、若くして没したので作品は少ない。師国芳より8ヶ月前に死んだため、芳幾の描いた国芳の死絵に一緒に描かれている

芳藤 

(1828-1878) 画姓:歌川 画号:一鵬斎、よし藤

国芳の門人。「拳絵」「横浜絵」「麻疹絵」「戊辰戦争絵」「文明開化絵」等の戯画を多く残しているが、「おもちゃ絵」が最も得意で「おもちゃ絵の芳藤」として名高い

芳宗 

(1817-1880) 画姓:歌川 画号:一松斎

十九歳で国芳の門人となるが、破門されることが十数度に及ぶ。合作「将軍上洛絵」がある

芳盛 

(1830-1885) 画姓:歌川 画号:一光斎、桜ん坊

幼時より国芳門に入り武者絵や時事絵を得意とし、「将軍上洛絵」「末広五十三次」「横浜絵」等の分野で活躍する